瀬戸内経済文化圏

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徳島|PEOPLE

真鍋太一|㈱フードハブ・プロジェクト 支配人

アメリカから東京の会社へ。徳島県の田舎町への移住決断は、ほぼ衝動。

高校卒業と同時に海外へ留学し、そのまま大学へと進学。東京の広告制作会社でバリバリと業務をこなしていた真鍋さんですが、急遽、徳島県の神山町への移住を決意し農業の会社を立ち上げることに。出身地の愛媛県ではなく、なぜこの場所を選んだのか。その理由には、神山町が現在まで引き継いで来た歴史がもたらすエネルギーがあったよう。

もう、都会で食べる野菜に戻れない!

―まずは、徳島県・神山町に辿り着くまでの経歴から教えて頂けますか。

高校卒業と同時に、アメリカの高校に一年留学。日本の高校卒業後は、ビジネスとデザインを学ぶために、そのままアメリカの大学に進学しました。

―高校の時から海外で学ぶことに興味があったのですか?

いえ、留学を決定づけたのは日本の中学校で実施されていた交換留学生プログラムでオーストラリアに滞在していた時、英語が喋れないことが悔しくて帰りに留学を決意したんですよ。高校で留学した時はホームステイ先が農場だったんですがそこでの生活が凄くて。毎週末のように豚小屋の掃除をしたり、馬に乗れないのに乗って牛を追いかけたり。「何してんだろう」と思ってました(笑)。

―けど、農場を選んだということは、当時から農業や畜産に興味があったってことですよね!

いえいえ、場所は選べないですよ! しかも、交換留学のプログラムでは大体が普通家庭に行くのが当たり前なので、ファームステイになったのは偶然。他の子はフロリダのお金持ちの家とか、ドラッグで蔓延する地域に行った子など様々でした。

―落差がありますね。

でも、この体験が今の自分の軸になっているような気もします。今思えばですが。

―大学卒業後は東京の広告制作会社などを経て、株式会社フードハブ・プロジェクトを手がける株式会社モノサスに入社されました。当時はどのような業務を担当されていたのですか?

主にはWEBや映像の制作、イベントの企画などを行っていて、プロデューサー/ディレクターのポジションでした。それが2012年になります。

―そこから2年後に徳島県・神山町へ移住されますが、東京できっかっけになるような出会いやイベントがあったのでしょうか?

モノサスの代表の林がIT会社の社長たちと何度か神山町に視察へ来ていて、「何かやりたい場所だから一緒に行かない?」と、誘われて来たのが最初でした。その時に『寄井座』という、時間が濃密に凝縮された昔の劇場の入り口にある長屋を紹介してもらったのですが、そこが妙に良くて。で、引っ越しました。

―(スタッフ一同)え! 躊躇とかは…なく?

いずれは四国に戻りたいという気持ちも少し持っていたので、移住することに対して長くは悩まなかったかな。高知や香川、徳島にも友達多いですし!

―四国に戻りたい意思は、上京した瞬間からずっと抱いていたのですか?

明確にあったわけではないです。それよりも、野村友里という料理人を中心にしたノマディック・キッチンという活動を東京の料理人たちと行っている時、私自身も食に直接関連する何かを始めたいと思っていたんです。そんな時に神山町が私の描いていた規模と合致した。そっちの方が大きいですかね。

―農業だけで見れば、徳島県には他にも魅力的な地域はたくさんありますよね。

もちろんです。けど、20年以上もやっている作家滞在型のアーティスト・イン・レジデンスや、パン屋やレストランなど業種を限定して募集するワーク・イン・レジデンスという街に欲しい機能を正直に打ち出していた空き家情報だったり、『イン神山』というサイトで見ていたプロジェクトのいろいろがすごく魅力的に映ったんです。

―そんな衝動でやって来た神山町での生活も6年目になりますが、自分の中に起きた変化などありますか? 「こんな自分も居たんだ!」みたいな。

細かなことを言えばたくさんありますが、改めて考えると難しい…あ、モノの見方や価値の付け方は大きく変わったかも。これまでは外にアンテナを張り、新しい物事を組み合わせたりするデザイン的な考え方でしたが、現在は“存在するモノコトをどう掘り下げていくか”。“どのように再解釈するか”。になっているので発想の方法が違います。

―変化以上の変化ですね。180度違う!

フードハブは「イノベーションではなく、改善」というアプローチなので、これがそのまま自分の変化になっているのかもしれませんね。

あっ! もうひとつ確実に言えるのは都会で買う野菜じゃ満足できなくなったこと。自分たちで栽培している贔屓目はあったとしても、神山町の野菜が断然美味しいんですよ! (後ろで作業している農業長の白桃さんに視線をやって)だよね、桃ちゃん!

―神山の道の駅へ寄り、野菜をたっぷり買って大阪へ帰ります!

真鍋太一|㈱フードハブ・プロジェクト 支配人

愛媛県出身。アメリカの大学卒業後、東京で広告業界に10年ほど従事。 ㈱モノサスに勤めながら、2012年より東京の料理人たちとNomadic Kitchen を始動。2014年3月より妻子と神山町に移住。2016年4月より地域の農業を次世代につなぐ「Food Hub Project」を、神山町役場、神山つなぐ公社、モノサスと共同で立ち上げ支配人を務める。同プロジェクトで2018年度グッドデザイン金賞(経済産業大臣賞)受賞。

兵庫|PEOPLE

山内庸資|イラストレーター

イラストレーターだからって机の前にじっとしてる必要はない。

余分なものを削ぎ落としたシンプルな線で、やさしさのある世界を描き出す山内庸資。イラストレーターにして、いくつかのプロジェクトではディレクションを手がけたり、町のイベントなどにもこまめに顔を出す、言ってみれば、なかなか机の前にじっとしていないタイプだ。でも、それって実は、街に根ざしたこれからのイラストレーター像なんじゃないかな。

イラストには○と□をつなぐ力がある

まずは、山内庸資さんの作品のことを聞いてみたい。神戸に留まらず、さまざまな場所でイラストレーションの仕事を受けている山内さんだが、実は、芸大時代は油画を専攻。大学卒業後もしばらくは油絵を描き続けていたんだそう。

油絵と同時にドローイングも描いて、両方を展示したりしていたんですけど、だんだんドローイングの方で声をかけてもらったり、仕事につながることが増えてきたんです。

―たしかに仕事として考えれば、油絵はなかなか依頼しづらいです。とはいえ、山内さんはドローイングが仕事になっていくことに特に抵抗なく?

僕にとってはドローイングも、油絵で描いてた世界をモノクロの線で描いてみたってだけなので、自分としてはそんなに違いはなくて。当時、ドローイングが流行してたのもあるかもしれないけど、仕事運にも恵まれて。営業をすることもなく、順調に仕事をもらえる流れになりました。

―イラストレーションについて山内さんはどう考えてますか。

イラストレーターの役割って人と人とか、人とコトをつなげることができる職能だなって感じています。作家性ということに関しては、僕は、油絵を描いてた頃に散々考えてきたので、そこはもうそんなに関心がなくて。それよりも自分の暮らしや生活、地域に直結するものとしてイラストを考えてみたいという気持ちが強いかな。

紙の上の線の話よりも、作品を取り巻く状況の話が自然と口をついて出る山内さん。その背景には、各地でのプロジェクトに携わってきた山内さんの経験がある。
特に大きな体験だったと山内さんが話すのは、小豆島の《Umaki Camp》(*ドットアーキテクツが瀬戸内国際芸術祭2013の出展作品として建てたスペース)に「似顔絵屋」として参加し、島内をモバイルプリンター付きの移動式屋台で巡って、出会った人の似顔絵をどんどん描いたこと。

単に似顔絵を描くだけじゃなく、物々交換みたいな感じで、僕がイラストを描く代わりに、たとえば水や野菜を振る舞ってもらったりというやり方をとったので、街の人たちともどんどん仲良くなりました。そのときの交流はいまでもゆるく続いてます。

―山内さんは、鳥取や徳島でもイベントや展示をされてますよね。

小豆島での出会いがきっかけになってたり、いちど仕事を依頼してもらったことから行き来するようになったりとか。仕事だからってその場かぎりの関係性で仕事だけやって終えるのではなくて、人でも土地でもいいなと思ったら、その後もつきあっていくようなことが大事やなと思います。

―持続的に関係を続けていくこと。

僕の場合、はじめは面白そうな匂いだけ、本能的に感じるところから始まって、「なるほど、こういうことやったのか」って後からその蓄積に気づくことも多いので、計算してるわけじゃないんですけどね。

―友達ができる過程にも似てますね。

そうかもしれない。単純に仕事をこなしているというよりは、イラストレーションって、僕にとっても入り口なんだなという気持ちがある。イラストの仕事を通して僕自身、いろんなことを学んでます。

―イラストってただ気の利いた線だと思ってしまえばそれだけにすぎないけど、そこから始まったり広がったりすることが実はたくさんある。

そうなんです。ただ、妻には背負いすぎだとも言われていて、40代で子どももいるわけなので、バランスをとって、うまく仕事にもつなげていかないと(笑)。

ユニークな人が集まる塩屋ライフ

神戸との関わりが長い山内庸資さんに、神戸の街といま暮らしている塩屋のことについても聞いてみたい。
山内さんは、神戸市西区(三宮や北野といった神戸中心街からすれば、山の向こう側)で5~20歳頃まで暮らし、大学卒業後は、都心部にほど近い灘(なだ)で彼女とふたり暮らし(曰く「彼女の家に転がりこんだ」)。結婚を機に長田(ながた)へ移り、子どもが生まれたタイミングで塩屋(しおや)へ。
灘からは、長田、塩屋と、神戸の海側を西へ、西へと移り住んでいることになる。

いまの僕の興味は鳥取や小豆島など、どんどん西へ向いているのかもしれない(笑)。神戸で暮らしてきた街に共通するのは、どこも観光地じゃなくて住宅地ですね。だから、神戸外のひとに街の特徴を説明するのは難しいんだけど…。

―学校が多くて商店街も元気な灘、多国籍な人が多く暮らす長田、そして、海が見える坂の街・塩屋と、住宅地とはいえそれぞれに個性が立った、神戸のなかでも一度は住んでみたい場所ばかりです。

僕は住むことに興味が強いんだと思います。家を見ながらだらだらと歩くのも好きで、自分がもしもここに住むとしたらって仮定しながら歩くの、めっちゃ楽しくないですか?

―家見て歩き散歩、よいでしょうね。

これは別に僕が仕掛けてるわけではないけど、塩屋で最近行われている面白い企画があって、それは参加者みんなで10軒くらいの人の家を訪ねてまわるんです。普通の個人宅を。

―観光ツアーのようにお宅訪問!

僕が塩屋に住むことになったのも、塩屋で展覧会を開いたことをきっかけに、塩屋界隈では“R不動産”ならぬ“アーリ不動産”と呼ばれている森本アリさんと知り合って、「こんないい空き家があるよ」って紹介してもらったからなんですけど、アリさんの他にも、いろんな人から塩屋にいい家があるよって家を紹介されてました。

―築100年超の旧グッゲンハイム邸でさまざまな企画を続けている管理人でミュージシャンの森本アリさんを中心に、塩屋には人を引きつける磁場が生まれてるようですね。

海と山が近くて、環境がとてもいいですから。僕も展覧会で一度会っただけだった画家の阿部海太くんから連絡をもらって、いっしょに塩屋を歩いて案内したら、それで実際に海太くんが東京から塩屋に移ってくるということがありました。


―ミュージシャン、画家、建築家、編集者、ライター、カメラマン…とにかくいろんな職能の人が塩屋に増え続けています。

小さい街なのに周りにいろいろと企画できる人がたくさん住んでいて、単純に毎日楽しいです。

―山内さんも塩屋での仕事、なにかやっていますか。

塩屋商店会のロゴを今つくってるところです。他にも、塩屋で復活した盆踊りの絵を描いたり、“塩屋フィッシングクラブ”って釣り好きおじさんの集まりがあるんですけど、そのグッズ担当として絵を描いてます。これはギャラがイカで(笑)。

―いいですね~。

律儀すぎて夜の23時ごろにフィッシングクラブのメンバーから電話かかってくるんですけどね。「山内さん、イカ釣れましたよ。今から持ってっていいですか?」って。

―塩屋暮らし、ほんと楽しそうだ。

正直なところ、仕事はどこででもできると思ってます。でも、だからこそ東京や大阪じゃなく、僕がずっと神戸にいる理由もそこにあって。自分がいいなと思える好きな地域に暮らして、仕事をし続けていきたいですね。

山内庸資|イラストレーター

1978年生まれ。イラストレーションを中心に、ドローイングやペインティング、デザインなどを手がける。神戸を拠点に、台湾、香港、韓国などでも活動中。この春、立ち上がる神戸市のプロジェクト「種はおよぐ」ではディレクションを担当。 →https://yosuke-yamauchi.org